サッカーを始めて17年の選手人生。
指導者として7年が経ち、人生の大半をサッカーと共に過ごしてきました。
選手の頃はただただサッカーが好きで、がむしゃらにボールを追いかけていました。
大学でサッカー生活にピリオドをうち、新たな世界である営業職で社会の厳しさを知りました。
サッカーしかしてこなかった自分への試練なのかと思うくらい、理不尽が理不尽ではないこともあると学びました。笑
しかし、仕事に就くまでの僕は自分と合う人としか関わって来なかったです。
仕事をすれば相手に合わせなくてはいけないこともあるということ、いかに相手の良さを見つけることが大事かを学びました。
営業というものは、本当にその売るモノの良さを知り、自分自身がそれを良いと思えないとやれない仕事だなと痛感しました。
毎月設定されるノルマを達成する為に、お客様を人ではなくモノと考えないと乗り越えられないことが日々幾度となく起きる毎日に僕は自分の性格では無理なんだなと気づき、6年でその仕事を退職しました。
何を与えて対価を得るか。
そこには満足が必ず必須になります。
僕はその満足を提供出来ているとは思えませんでした。
あればいい。それくらいでいい。
ではなく、これじゃないと。とお客様が思える価値提供がしたかった。
僕の為に欲しくもない、必要もないコピー機を買ってくれると言ってくれた、自営業のおじいちゃんとおばあちゃんに対し僕は会社や上司から評価を得る為に売ることはできませんでした。
「いつもよくしてくれるから」という理由で60万以上する、その人たちにとって(あればいい)ものを買わせてしまうことは僕にはどうしてもできませんでした。
所長はもちろん、自分の評価を下げない為に部下たちに結果を求めます。
新人であった僕には、所長が無理やり行ってでも契約を取る。
手段を選ばない。
必死になって口実を作って、そのお客様にコピー機を売らないで済むようにした事を今でも覚えています。
その後、指導者としてまたサッカーと関わる事となり、今を迎えます。
そんな今、自分のサッカー人生を振り返り書き記しておこうと思いました。
最初で最後のサッカーへの想いをここに残しておこうと思います。
こんな自分のサッカー人生が、アネッロに関わる選手の少しでも力になれたり、安心となれたら幸いです。
まとまりのない、読みづらい文面となってしまうかもしれませんが、思ったこと、自分の経験を時間をかけて頑張って書いてみようと思います。
アネッロ。
「輪」「年輪」の意味を持ちます。
2013年、今高校2年生となった女の子達をもっと広い環境でサッカーと関わらせてあげたいという想いからアネッロを立ち上げました。
少ない女子チームの中で狭い集団の中でサッカーと関わること。
月一回の県トレセンだけの関わり。
そんな環境が少しでも多くなり、少しでも多くの選手と多くの経験をさせてあげたかった。
小学生の頃ぼくを指導してくれた恩師が、男子チームとのトレーニングマッチを無償で毎週してくれたりと、多くの人達が彼女たちを支えてくれました。
そんな選手達が技術以上に手に入れたものは
「考えること」でした。
女子は男子に比べて頭で考えてから行動をおこします。
だから小学生の頃、なんでこんな怪我をするの?というような怪我をするのはいつも男の子です。
考える事は【継続】につながり、やがてそれは【習慣】
に変わります。
大事な事を【習慣】で出来る選手の育成こそ、小中年代に必要な事と僕はこの子たちを通して強く感じる事が出来ました。
指導を始めて2年、ぼくは指導の軸を確信し、今でも本人達が考えれる環境を常に作っています。
指導者がさせたいこと、やらせたい事を覚えさせ思い通りにさせることは、指導者の満足にすぎません。
体力はやっていれば人並みにつきます。
筋力もスポーツをしていればある程度つきます。
だからこそキックも無意識に少しずつ飛ぶようになります。
でも意識して考えなくては、多彩なキックは蹴れません。
考える習慣がない選手は高校生になっても考えれません。
よく環境が成長させる。
という言葉を聞きますが、僕はそこには見えていない落とし穴があると思います。
チームと個人の共有は中々難しいです。
綺麗事を言えば一人一人を成長させながらチームを作る事が理想です。
しかし、競技となればそこには勝敗がついてきます。
そうするとどうしても、チームの中には平等性は薄れていきます。
だからこそ、チームを作る指導者と個人に常に目を向ける指導者が共存できる仕組みは今後必ず必要になってくると思います。
プロになったり、海外に行った時に、ある程度の収入を得た選手は個人サポートのマネージャーや、トレーナー、パートナーを雇います。
しかし、一握りの世界に飛び込む前に、個人に対してのサポートがもっともっと必要だと思います。
もちろん、一人一人に素晴らしい指導者がマンツーマンでつく世の中が理想ですが、そのようなことが不可能であれば、関わる全ての指導者が、もっと一人一人に目を向け、考えさせて、深くまでその選手を知って関わる事が必要だと思います。
自分の元から離れても、違う組織に属しても、自分の意志を持ち、自らアクションすることのできる人間になってほしい。
それは選手時代私自身がずっと自らのチャレンジを怖がり、自分に自信を持たなかったから。
だからこそ、指導者として携われている今、自分が出来なくて後悔したこと、悔やんだ経験を指導に変え、伝えていきたいと思います。
成功者のコトバには皆耳を向け影響を受けると思います。
しかし本田圭佑のコトバよりも、サッカーを成功させられなかった僕だからこそ伝えられることがある事を僕は信じています。
〜歩み〜
(小学生)
ハリマオSC
(中学生)
ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)
(高校生)
厚木北高校
(大学生)
桐蔭横浜大学
バレーボールを現役でしている父によく体育館に一緒に連れて行かれてました。
バレーボールを手ではなく、よく蹴っていて父に怒られていたのを覚えています。
サッカーというスポーツの認識はない中でボールをいつも足で触っていました。
幼稚園年長のころ、近所のお兄ちゃんが通っている少年団に誘われ、放課後楽しみにしながらはじめて少年団への体験をしました。
平日週3回ある練習には、ボランティアのお父さんコーチが来たりこなかったり。
良い環境と言ったらウソでも良いとは言えない環境でした。
学年毎にやる場所が決められていて、一番好きなトレーニングは一人でやる壁当てでした。
それでも毎回のサッカーが楽しみで、ない日はいつも家の壁でボールを蹴ったり、リフティングをしたり、公園の鉄棒をゴールにして友達とサッカーをしたりと、ゲームよりもサッカーを優先する毎日でした。
そんな中でも流行りには敵わずゲーム機が欲しく、3年生の頃次の試合で5点取ったら買ってあげると母に言われたミッションを必死で達成しようと、ラスト1点はチームメイトが協力してくれて達成した事を覚えています。
1年生の頃から背が大きく、4年生の試合にゴールキーパーで出たこともありました。
毎年おこなわれる夏合宿の記録会で、リフティングとキックで一番になりたくて必死で自主練をしたこと。
試合の前の日は枕元に次の日の準備を並べ、翌日雨が降って試合が中止になると泣きながら悔しがっていたこと。
21時までやるヴェルディの試合を眠い目をこすりながら毎回楽しみに見ていたこと。
テレビ中継がないと、父にお願いをして車のラジオで必死になって耳をかたむけていたこと。
誕生日にヴェルディのジャージが欲しく、念願叶い買ってもらったものの、友達が欲しがるからとチームから着るのを禁止され、学校にしか着ていけなかったこと。
カズのカードが欲しくて、お小遣いを全てJリーグチップスに使っていたこと。
おばあちゃんにお願いして箱買いしたこと。
学校にはキャプテン翼を見終わってから登校したこと。
常にサッカーが中心の生活でした。
そんな僕も6年生になり、チームではキャプテンを。
背番号も母の好きだった巨人の江川卓の30番から10番へ。
市トレセンではレギュラーとしてセンターハーフとして出させてもらい、県トレセンにも選出してもらいました。
チームの練習では2人組のトレーニングはいつも一番上手じゃない子とやっていました。
キャプテンだからなのか、その子に上手くなってもらいたいのか、今思い返しても理由はわかりませんが。
でも上手ではない子と一緒にトレーニングをする事は、思ってたことと違う状況が起こりうることもあり、意味のあることだと思います。
6年になってすぐの頃から自分が大きな舞台での気持ちの弱さを自分自身で感じていました。
セレクションなどでは緊張してボールがちゃんと蹴れないくらい脚が震えていました。
それでも自分が一番上手くなりたいと思い常にサッカーにはまっすぐ全力で向き合いました。
市では常に優勝が出来ました。
冬の最後の選手権はベストエイトでマリノス追浜にPKで負けた事を今でも濃く覚えています。
キャプテンになってからの1年は毎回のように監督に怒鳴られ、仲間のミスも、チームの負けも全て自分に責任があると思いながらサッカーをやっていました。
その時の自分の心理状況は今でははっきりとは覚えてはいませんが、この頃はもしかしたらあまりサッカーを楽しめていなかったかもしれません。
当時はスクールもなく、サッカーというものをしっかりと教えてもらうというよりかは、感覚でサッカーを知る事の方が多かったのかなと。
極端に言えば、理論や、身体の使い方、意識など1ミリも教わってないかもしれません。
サッカーの悩みは他では解決ができる環境ではありませんでした。
そんな中、ある大会の日。
いつもの僕たちの担当の監督は不在で、当時息子さんが卒業してボランティアでたまに手伝っていたお父さんコーチがその日の僕らの帯同スタッフでした。
結果は1-3で負けてしまいました。
いつもであれば監督に怒鳴られ、僕がみんなの前で怒られている状況でしたが、その方は終わったあと、みんなの前で僕の事を褒めてくれました。
そしてその褒められた内容も自分では気付くことの出来ていない、誰にも褒められたり指摘されたことのない事でした。
全ての意味を当時理解できた訳ではありませんが、当時の僕はその自分がわからなかったこと、気にしていなかった事を褒められた事が本当に嬉しく、僕自身の大きな光となる機会となったのを今でも覚えています。
自然とその時、この人は自分のことをちゃんと見てくれている。
また、この人に教えてもらいたい。
この人とサッカーをしたい。と小学生ながら思っていました。
その人は今僕の出身チームの監督を今でも元気にしています。
一見、言葉使いや態度が悪く、嫌な印象を持たれがちですが、僕を救ってくれた恩師の1人ですし、この人のおかげでサッカーを今でも好きでいられるのかと思っています。
市トレセンで仲良くなった選手との交流や、トレセンがきっかけでチーム間の関係も深まり、あるチームが清水カップに出場した際、けが人が出てしまい2日目に違うチームである僕に声がかかり、日本平の競技場で他のチームで出場したことや、中国遠征にも連れて行ってもらいました。
当時1週間の中国遠征で30万円ほどの費用がかかる中、両親は嫌な顔せず参加申込みをしてくれました。
父に呼ばれ、自分が成長出来る為なら行かせてあげるから、その代わり自覚を持って、30万円という大金をしっかりと大事に思いなさいと言われました。
中国遠征では、現地の中国代表と試合をさせてもらいました。
僕たちが乗るバスはパトカーに先導され、競技場には僕たち小学6年生の試合を観る為に5,000人以上の観客がいました。
当時の中国の選手たちは身体が皆細く、痩せてるというよりかはやつれているという印象を受けましたが、戦う気持ちであったり、体力はめちゃくちゃありました。
ホームステイや、学校訪問など、多くの経験をさせてもらいました。
しかし、北京オリンピックの開催が決まっており、オリンピックの準備が進み、中国の貧富の差を小学生ながら強烈に覚えています。
見せたくないものを押し入れに雑にしまうように、中国では当時、見せたくない町は乱雑に作られた壁で見えないようになっていたのを覚えています。
この頃に違う国に触れたことはとても良い経験となりました。
僕らはプーマや、アディダスといったブランドの靴を履いていましたが、当時の中国代表と言われている同年代の選手たちはスパイクすら履けていなかったり、知らないメーカーの靴を履いてる子がたくさんいました。
当たり前のようにサッカーができる環境は当たり前ではなく、当然のように与えてもらえる道具や場所は、ありがたいものなのだと強く感じましたし、親への感謝や、場所を貸してくれる感謝は、色々な形での恩返しが必要です。
厚木市内では常に優勝をするチームでしたが、それ以上に多くの県への遠征や、トレセンの活動でたくさんの人と関わりが持てた事は今でもサッカーに自分が関わっている事で繋がりが続いています。
中学の進路は市トレセンで監督をされていた方が、このメンバーでチームを作りたいとジュニアユースを立ち上げました。僕も特に自分がどこに行きたいという意志もなく、今のように中学のクラブチームを知る機会もありませんでしたし、多く存在もしていませんでした。
当時の流れは、基本みんな部活に入る事が一般で、僕の3つ上の先輩が当時マリノスに受かった時は町の話題になるくらい驚きのことでした。
僕もみんなが行くならと安易な考えで、そこに行こうと思っていました。
正直、自分で何かチームを調べてとか、見に行ったりということもせず、自分の意志はあまりありませんでした。みんなと出来るならそこでいいかなと。
そんな中、市から登録団体にベルマーレのセレクションの案内があり、僕のチームにもコーチから案内がきました。
僕は当時ベルマーレをほぼ知りませんでした。
配られたチラシを家に持ち帰り、母親に渡したのを覚えています。
その時受けたいと思わなかっなのも覚えています。
しかし、気付けば母親同士が連絡を取り合い、チームメイト6人で受けに行くこととなりました。
受かりたいと思っていませんでしたが、キャプテンであったこともあり、市トレセン、県トレセンに選ばれていたこともあり、落ちたくはないという感情だったと思います。
当日は午前が1次セレクション、午後が2次セレクションでした。
380人ほどいた中で、午前も午後も4対4のゲームでした。
午前のメンバーは僕以外の3人は同じチームの子だった様でパスが全然回ってきませんでした。
とにかく声を出して、指示をして、守備を一生懸命頑張りました。攻撃のアピールはほとんどできませんでした。
結果は午前中の間に合否が出て、参加者の前で全員に番号が発表されました。
うちのチームからは僕ともう1人が2次に進み、午後の2次セレクションにのぞみました。
自分の武器はキックだったので、セレクション中パスやロングボールといったプレーを多くアピールできるようにしました。
2次以降は全て電話連絡で、最終的にセレクションは8次セレクションまでおこなわれ、スカウトされた選手とのセレクションを終え、23人に選ばれ、当初のチームを断り、ベルマーレに入ることを決めました。
同じ市トレセンのメンバーからはベルマーレに僕を含めて2人。マリノスに1人。3人がJクラブへ進みました。
中学でのサッカー生活は3年間通う事も大変で、Jリーグのクラブである厳しさというものを痛感しました。
平日は週3回平塚の大神まで通いました。
4時に中学が終わり、みんなは各々の部活に行く中、僕は誰よりも早く学校を出てバスに乗り本厚木に向かい、本厚木からまたバスに乗ってクラブハウスまで向かいました。
片道約1時間半の移動を3年間続け、帰りはいつも夜の11時くらいの生活を続けていました。
もちろん、父のお迎えなどもしてもらったり、たくさん助けてもらいましたが、宿題はバスの中でやる事が多かったです。
チームはやはり、毎日毎日が競争で僕はスタートにつまずき、1年生の頃はほとんど試合にも出させてもらえませんでした。
肉離れをしたり、半年プレーが出来なかったりと、正直辛い日々でした。
指導者に好き嫌いがあるとすれば僕は気に入られていなかったと思います。
周りはみんな上手いし、自分がまだまだ土俵に立てるプレーヤーじゃないなと。
そんな中、ある方に出会いアドバイスをもらった事で僕は目指すものがはっきりとしました。
この言い方はあくまでも綺麗な言い方で、正直言えば、その人に目指すものを決めてもらって、自分自身で考えられず言われた事をやっただけかもしれません。
当時、ベルマーレのトップの監督をされていた上田さんにトレーニング後の自主練でボールを蹴ってる自分に、右足のキックの精度が高いから、同じように左足も蹴れれば出れるチャンスも増えるから、両足蹴れる選手になりなさいとアドバイスをいただきました。
それから僕は毎回終バスの時間に間に合うギリギリまで左足のキックの練習をしました。
※この努力は僕のサッカー人生で一番誇れることかもしれません。
2年生になるとチームは3年生と合同になり、AチームとBチームに分かれました。
僕はポジションをMFからDFに変わり、守備力と両足蹴れる事を評価されAチームでレギュラーとして試合に出してもらえるようになりました。
チームメイトは皆レベルが高く、必死で食らいついてレギュラーの座を奪われないよう努力しました。
そしてマリノスやフロンターレには能力の高い選手が多く、苦戦をした事を覚えています。
また2年生から神奈川トレセンにも選ばれ県を代表して大会にも出場できました。
当時はベルマーレには中田英寿や呂比須、ホン・ミョンボなど国を代表する選手がたくさんいて、ファンも常に多くいる時代でした。
クラブがトレーニング後にはおにぎりを用意してくれていて、トレーニングが終わったらケアをしながらおにぎりを食べ、家に着いてまた夕飯を食べる習慣でした。
マックや炭酸は禁止されていて、見つかると罰を受ける選手もいました。
チームの人間関係は、仲が良いかと言うとそうではなく、グループが分かれていたり、グランド外でもギクシャクした関係の選手たちもいました。
中学年代は、親からの手も自然と離れ多くのものを収集できるようになります。
よく言えば開放感なのかもしれませんが、自己制御力がないと悪い方向にも流れてしまう、難しい時期だと思います。
悪さをすることがカッコいいと思ってしまったり、同い年のチームメイトも2年間で10人ほどがチームを去っていきました。
指導者への不満や、感情を直接ぶつける事も少なくありませんでした。
ただ、言い方などの問題はあったとしても、自己主張できることは僕は悪いことではないと思います。
もちろん組織である以上、立場やルール、規律といったものは絶対に必要です。
ただ、自分の意志を言える事は悪いことでは無いと思います。
僕も小学生の頃は自己表現が苦手でしたが、中学2年生になり、自分に対してのプライドや、経験から試合中でも上の先輩と言い合う事もできるようになってきました。
ベルマーレに入った事で多くの良い経験も出来ました。しかし、辛い事やきついことの方が多かったと思います。
2年生で出場したクラブユース神奈川予選の決勝でマリノス相手に6本目のPKを任されたが、外して負けた事も。
3年目を迎えた最後の年は、最後の高円宮杯では神奈川で優勝することができ、関東大会に出場し、ベルマーレでの3年間を終えることが出来ました。
2年生になってからは大きな怪我をする事もなく、ほとんどの試合をレギュラーで出ることが出来、ユースに残る提示もクラブからしてもらうことが出来ました。
しかし、僕は毎年正月に行われる高校サッカーに憧れがあり、3年の夏前から高校サッカーでやりたいという自分自身の意志がありました。
小学6年生の頃には無かった確固たる意志です。
両親からはユースに残る事を勧められましたが、僕はどうしても高校サッカーでやりたかった。
神奈川で優勝した事もあり、当時僕は多くの高校から声をかけてもらいました。
桐蔭。桐光学園。日大藤沢。厚木北。弥栄西。
向上。湘南工科。光明相模原。
どんなトロフィーやメダルより、誰かに必要とされる事は一番の喜びかもしれません。
自分というプレーヤーをこれだけの高校が必要と思ってもらえた事は、挫けそうになったときの自分への力の源だったと思います。
当時、桐蔭、桐光はやはり頭一つ抜けており、ここに行くことがプロへの一番の近道だったかもしれません。
しかし僕はこの2校を倒して全国に出たいという思いがありました。
そして僕は一番はじめに声をかけてくれて、ベルマーレの大好きな先輩が行った厚木北に進む事を決めました。
決して強いチームではありませんでしたが、ある試合を観た時、チームの一体感と必死に全員が走ってるところに感動し、幼なじみとここでサッカーをしようと決めました。
幼なじみは一般受験で無事合格し、一緒にサッカー部に入団しました。
高校にはスポーツ推薦で入ると、僕はベルマーレでの実績もあり、部活スタートから1週間でAチームに入る事となりました。
当時は1年生から3年生で70名ほどの部員がいました。
1年生の夏インターハイ予選から僕は3バックの左で試合に出させてもらいました。
高校1年生の時が高校時代一番サッカーが充実していて、先輩たちと一緒に1日でも長くサッカーをしたいと思っていました。
全国の舞台には立てませんでしたが、インターハイ予選でベスト4。選手権予選ベスト8の経験をレギュラーとして経験することが出来ました。
しかし、僕のような人間を先輩や同級生は面白く思わない人たちも多くいました。
常にレギュラーで、怪我をしても治ればすぐに試合に出れて。
紅白戦ではあからさまに怪我をさせようという事もありましたし、靴を隠されたり、スパイクを切られたりした事もありました。
試合に出れない同級生は僕たちAチームが負けるのを喜んでる事も多々ありました。
今振り返っても、高校生活の2年間は僕のサッカー人生において一番辛く、戻りたくない過去かもしれません。
しかし、自分自身も自分の立場に過信し、自惚れていたのかもしれません。
自分が当たり前のように出て、その反対に出られない選手の気持ちなど、正直その時の僕は思ってもいなかったし、気にもしていなかったと思います。
高校でも中々サッカーの部分を具体的に詳しく教わった記憶もありませんし、トレーニングの内容もシチュエーショントレーニングが多く、時間と経験で成長したというような感じかもしれません。
僕はキックが得意でしたが、ロングボールばかり蹴るサッカーがあまり好きではありませんでした。
しっかりとポゼッションし、ボールを回していくサッカーが好きでしたが、県立高校が私立に立ち向かい勝つにはやはりある程度ロングボールを多用し、FWに強い選手を置き、ポストプレーからラインを押し上げ走力で上回るといった戦術が多かったです。
県トレセンにも選ばれ僕自身はプロになれるものだと思いながら過ごしていました。
3年間を通し、全国の舞台を踏む事も、桐蔭、桐光に勝つ事も出来ず、目標を達成することができませんでしたが、僕自身いろんな事を乗り越えた3年間でありました。
3年の夏には、胸骨を骨折、祖父の死など辛い時期もありました。
中学までサッカーのことであまり悩みませんでしたが、高校の3年間は自分への弱さや、サッカーに対する思いをもっと強く持たないといけないと強く感じました。
もちろん、進路に関して高校でサッカーを辞めるつもりは全くなく、どこから声がかかったわけではありませんでした。
しかし、僕が1年生の頃の3年生でいつも僕を可愛がってくれていた先輩が桐蔭横浜大学に進学しており、練習参加のお誘いを受けました。
当時はまだ大学サッカー部が動き始めて10年も経っておらず、桐蔭高校と同じ敷地内に大学もあり、風間八宏さんが大学の監督をされていて、これから強くなっていくというような大学でした。
私は高校3年生の選手権が終わってから、大学の練習参加をさせてもらいました。
正式な誘いを受けるまで3回ほどトレーニングに参加させていただき、左右蹴れる事、左足のクロスの精度を風間さんに評価され、推薦での入学を決めることが出来ました。
また、同じタイミングで高校に仙台大学のサッカー部の監督さんからお電話をいただき、2日に渡り行われる仙台大学のセレクションへの参加のお誘いを受けました。
私はなぜこのような経緯になったか、その時はわからず、高校の監督と返事を保留にしました。
仙台大学は当時東北ナンバーワンの大学と言われていて、とても強豪の大学でした。
そのお話を受けた翌日、監督に呼ばれると事の経緯がわかりました。
同じ北相地区である向上高校の監督さんと仙台大学の監督さんが知り合いで、神奈川にボールフィードが出来て、一対一に強いDFはいないかな?という相談を受けたそうです。
そしてその際に僕の名前を出してくれたというのです。
僕は面識はありましたが、関わりを持たせてもらっていたわけでもない方から自分の事を推薦していただいた事が本当に嬉しく、感謝と喜びを今でも覚えています。
親、監督と話し合いをしたうえ、他の県のサッカーを知る事も、セレクションを受ける事も良い経験になるのでないか。というアドバイスをいただき、僕は父の運転で仙台に向かい、2日間に渡るセレクションを受けました。
選手は大学が用意した宿泊施設に泊まり、僕は仙台育英の選手と同部屋になりました。
社交的で、すぐに打ち解ける事ができ、2日目のゲームでは同じチームでプレーが出来ました。
当時の彼女のプリクラを見せあった事を覚えています。
背が僕よりも大きく、ヘディングの強い選手でした。
彼とはその後も連絡を取ったら、お互いSNSで近況を伝え合う中でした。
2日間のセレクション終了後、2時間ほどの休憩の間に合否が参加者の前で言い渡されました。
S、A、B、不合格。
当時は電話やインターネットでの合否というよりは現地での発表が多くありました。
僕は参加者の中で2人のSの評価をいただき、Sというのは特待での推薦でした。
学費免除のサッカー推薦。
地方での知らない選手ばかりの中でのセレクションでしたが、僕は2日間自分に自信を持って、臆する事なくチャレンジをし、必要とされていた両足でのキックをアピールしたことを覚えています。
50人ほどの選手がいた中で、今までの努力の積み重ねにより、誰よりも自分が出来てるという気持ちの中でチャレンジをする事が出来ました。
今でも指導者となって、パーソナルミーティングでも伝えていますが、自分の武器を知ることは戦いに行くことで必要不可欠なもので、その武器を持ったとき、どれだけその武器を信じれるかは自分自身の努力と経験でしかありません。
僕は喜ばしい評価を受け、2週間後までに返答をしてほしいと言われ、父と共に仙台を離れました。
そして、同じ部屋で過ごしたルームメイトはA評価を受けサッカー推薦での入学を彼はすぐに決めました。
地元が仙台であることもあり、仙台大学に入りたかった彼は喜んで、一緒にチームメイトでやろうと言ってくれました。
連絡先を交換して別れました。
帰りの道中、父と話したり、地元に戻り何日か過ごす中で進学のことを真剣に考えました。
僕も大学までサッカーを続け、多くの優勝や優秀選手をいただきましたが、自分のサッカー人生において、一番嬉しかったのは、やっぱり自分の事をほしいと言ってもらえる事です。
うちのチームにどうしても君が必要なんだ。
という言葉は最高に嬉しいものです。
ただ、それはセレクションだけのことに限らず、どんな活動においても、自分を必要としてもらえることは大きな喜びとパワーとなります。
そんな想いの中、桐蔭横浜大学と仙台大学の2校で悩んでいた私の、最終的な決め手は、風間八宏さんに教えてもらいたいという思いでした。
当時小学3年生だった時にJリーグが開幕しました。
ヴェルディの稲妻のようなユニフォーム。
ラモス、カズが大好きでヴェルディを応援していましたが、その当時から活躍していた風間さんを僕はずっと覚えていました。
引退後、指導や解説、すぽるとのマンデーフットボールのコメンテーターなどで活躍していました。
結果、風間さんは僕が入学した翌年に筑波大学の監督に就任し、僕は1年間しか風間さんに教わることは出来ませんでした。
しかし、その1年間は僕のサッカー人生で一番色濃く、一番恐怖で、でも今の自分の全てかもしれません。
細かな技術に厳しく、しかし、的確に習得の為の指導をおこなってくれました。
僕はこんなにプレーや戦術などを考えたのはこの大学1年生が初めてでした。
自分自身が日に日に上手くなっていくのを感じ、自分に自信を持てるようになりました。
今の自分の指導者としての根本の部分は風間さんの教えがあるとハッキリ言えます。
明確に変化を与える。選手が信頼できる指導者。
桐蔭横浜大学はまだまだ当時は駆け出しの大学だった為、神奈川県リーグ一部でありましたが、桐蔭は設備も素晴らしく、人工芝も大学2年の時には日本で二箇所目になる最新で、クラブハウス、お風呂もある環境でした。
風間さんがナイキと契約をしている為、ウェアは全て支給。クラブのボール40個は半年で新しいモデルに変わるという経験をしました。
この時に個人スポンサー契約には夢があるなと思いました。
メーカーによっても違いますが、スパイクやウェアの支給だけでなく、アディダスと大きな個人契約をしているある代表選手なんかは、アディダスショップで一回10万円分自由に買えるなどといったこともあります。
プロになる事でこういったこともあります。
そんな事を僕はプロになりたいという夢を持ちながら憧れていました。
チームというとサンフレッチェ、ジュビロ、静岡学園、桐蔭、マリノスといった出身選手などが多く、個人の能力が高く、自分の足元の技術がこんなにも低いことに気付きました。
高校まで、県内の選手、県外の選手と多く関わってきましたし、対戦してきましたけど、どこかで自分はプロになれると思っていました。
どんな自信なのか。
入学早々、環境に慣れることやサッカーへの自信が打ち砕だかれましたが、何より毎回の風間さんのトレーニングがとんでもない緊張の中でも楽しくて、必死で食らいついていたのを覚えています。
学年は関係なく、誰にでもチャンスがある環境でした。
だからこそその雰囲気が毎回気を抜けない、プロの環境のようなものでした。
大学生なって初めて、あんなに緊張してサッカーをしたのを覚えてます。
基礎技術こそ自分の自信そのものになる。
逆に基本がないプレーヤーに予想以上のプレーは起きない。という言葉を信じ、自分自身と向き合いました。
パスの質、コントロールの質、オフザボール。
アネッロのテーマでもよくこの3つのテーマを僕は取り上げます。
何故なら改めて大学でこれを教わり、自分自身が大きく変化したからです。
だからこそ、小学年代の選手たちにこのテーマへこだわりを持たせる事が、大きな自信と変化に変わると思っているからです。
難しいかなと思うような話も僕は低学年にも伝えます。
理解よりも、知ってる、聞いたことあるという頭の中の片隅の記憶は、必ず自己解決に将来繋がると信じてるからです。
僕は1年の頃、中々試合には出る機会がありませんでしたが、天皇杯の予選でいきなりボランチでレギュラー出場を果たしました。
与えられた僕へのミッションであるDFからボールを受け、相手3バックの左右の裏のスペースにボールを配球をすること、相手のトップの選手にタテのボールを入れさせないようにということを徹底してプレーしました。
後半の途中、交代しましたがベンチに下がる際、風間さんには「いいプレーだった。お疲れ様。」と声をかけてもらいました。
試合は勝利を収め、次の日は月曜日で紅白戦の日でした。僕は途中交代ではありましたが、自分でも手応えを感じていました。
紅白戦の時はクラブハウスのミーティングルームのホワイトボードにメンバーが発表されています。
もちろん、僕は当たり前のようにAチームに自分の名前があるものだと思っていました。
しかし、結果はAチームには僕の名前はなく、Bチームでも本来のポジションではありませんでした。
交代した時に言ってもらった言葉。
自分が感じた手応え。
しかし、結果はBチームに。
大学生ともなると、自信を積み重ねてきた選手達が自分も含め多くいます。
自分に自信があるから大学までやれるのだとも思います。
だから故に自分がダメだと言われることや、それに似た対応をされた時は悔しい感情よりも腹が立つ感情がほとんどです。
しかし、人やモノに当たる感情の前に何故か風間さんの作り出すサッカーには大学生になっても自分に矢印を向ける事が出来ました。
高校の時、こんな出来事がありました。
アシスタントコーチに練習中のあるプレーを指摘された時、僕は強い口調で言い返した事がありました。
これはよくある指摘なのかもしれませんが、起きた現象に対し、そうじゃなくこうだろ!と言われた事に僕は反論しました。
大声で怒鳴られたあと、その先生のところに歩み寄り、感情をあらわに自分が考えて起こした事を説明しました。
もちろん選手と指導者としての立場はあります。
しかし、そこには選手が指導者に対しての信頼は必ず必要な事です。
指導者が偉いわけじゃありません。
選手が弱いわけじゃありません。
だからお互い信頼を得る為に努力をするのです。
僕は風間さんにされた事、言われた事で一度も他力のせいにしたことはありませんでした。
圧倒的な存在というものはあったのかもしれませんが、僕は風間さんを指導者として本当に尊敬していて、信頼したいたのだと思います。
だからこそ、自分に矢印を向ける事ができていたのだと思います。
そして何より、そんな1年間が僕のサッカー人生において一番上手くなった時期であり、サッカーの楽しさを教えてもらいました。
風間さんが離れてからは、少し温度がなんとなく自分もチームも下がったような気はします。
当時は1つ上の現在ドリブルデザイナーとして活躍しているマーちゃんと毎日のように遊んでから練習へと行っていました。お互い音楽が好きで、当時流行ったターンテーブルを買い、町田にレコードを買いに行っていました。
マーちゃんは絶対音感を持ってます。
どんな曲もちょっと聴いたらすぐピアノで弾けちゃうし、何よりこれと思ったものへのこだわりは当時から凄かった。
僕は左サイドバックをやる機会が増え、その前にはいつもマーちゃんがプレーしていました。
サイド攻撃の定番プレーといえば、サイドハーフの選手にボールが入ったらサイドバックはその選手を追い越すアクションをし、2対1を作り出します。
そして突破かパスかという選択肢を2つ作り出し、相手に限定しずらくします。
しかし、僕が毎回マーちゃんを追い越してもほとんどボールは来ません。多分10回に1回ボールが来ればいいくらいでした。
パス来ないのにな〜と思いながらいつも、マーちゃんを追い越す為に走っていた事をいまでも覚えてます。
練習が終わればドリブルの相手役を1時間近くやらされました。取れないとわかっているのに守備役をやらなくてはいけないのは毎回苦痛でした。笑
早くご飯食べ行きたいなって思いながら相手をしていました。
一生懸命、大学生活の中でサッカーと向き合っていましたが、どこかで僕の自分への自信や、夢は多くの選手と関わる事で薄れていきました。
鈍感に自信を持つことができていたらと思うくらい、自信がないと夢は追えないと思いました。
今でもJリーグで活躍してる選手とも多く対戦しました。上には上がいるなと。
でもだからといってサッカーを疎かにした訳じゃありません。
夢を見失ないましたが、関東2部にチームをあげたいというチームの目的が僕の目的にも変わりました。
だから努力ができていたんだと思います。
2年の頃、大会で筑波大学とやる機会がありました。
前日に茨城に入り、泊まりで次の日試合というスケジュールでした。
中々メンバーにも選ばれない中やっとメンバーに入り帯同する事が出来ました。
メンバーに選ばれない場合、県外での試合の時はその選手はオフになります。
久々に選ばれた事もあり、両親も楽しみに観に来てくれる事になりました。
前日のトレーニングを終え、翌日朝食を終えるとスタートのメンバー、ベンチのメンバーが発表されました。
そこには僕1人だけ名前が呼ばれませんでした。
18人の登録メンバー数に対し確かに19名帯同していました。
僕はビデオ係でした。
当たり前のように、監督は僕に対して申し訳ないなというような印象もなかったと記憶してます。
ビデオ係の自分の為にわざわざ観に来てくれる両親に対しての申し訳ない気持ちも勿論ですが、それ以上に今までのサッカー人生で一番の屈辱を味わった出来事でした。サッカーを始めてその時初めて「辞めたい」と思いました。
その試合の結果も試合の内容の記憶もあまりないですが、平山相太と藤本淳吾があり得ないくらいレベルが
高かったのは鮮明に覚えてます。
監督にもチームメイトにも腹が立つし、ビデオも撮りたくない。アップを手伝わずにすぐビデオを撮る場所に移動してふてくされていたと思います。
ビデオも適当に撮りたかったけど、映像分析の時に怒られたくなかったから仕方なく撮っていました。
今でしたら、そんな自分を見たら正していたかもしれません。
でもその結果と、その時自分がとった行動が大学2年の時点での僕のそれまでの成果であったと思います。
そんな選手はもちろんプロにはなれない。
サッカーを通してそれまでの人間力でしかなかったということです。
茨城から帰って僕はすぐ父に辞めたいと告げました。
一時的な突発的行動だったかもしれませんが、それくらいもう嫌だと思ったんだと思います。
父に辞めたい旨を伝えると、父にこう言われたのを覚えています。
初めて辞めたいと思ったんだよな。
一回その事があってムカついて辞めるくらい簡単なことなんだな。
じゃあお前が今までレギュラーで出てて、いつでも自分の怪我が万全であれば試合に出れて、セレクションでも多くの人に評価されて。
なら、お前が出てる時に出れないやつのことを考えたことがあるか?
今まで一度も嫌な事や辛い事を経験してないから、この一回で辞めたいと思うくらい弱い人間なんじゃないのか。
お前が辞めたいなら好きにすればいい。
ただ後悔するのが確かなのは伝えといてやる。
そう父には言われました。
サッカーが好きで、チームメイトも好きで本心は辞める決心なんてついてなかったのかもしれません。
でも、本当に僕はこの時父に言われるまで自分のことばかり考えていたんだなと気づきました。
試合に出れなくても、チームの為に考えて行動をしている選手や、外から声を出す選手がいたことも自分にとってはごく当たり前のことだったのです。
高校3年の選手権予選で僕は相手のスパイクの裏が胸骨に当たり骨折をしました。全治1ヶ月でリハビリをしていましたが、一次予選の決勝には間に合わず3年間ベンチだった僕の3年間のクラスメイトが出る事になりました。
センターバックを組んでいた2年生は前日泣きながら僕のためにも勝つと話してくれていたそうです。
クラスメイトも、試合前にベンチにも入らない僕に、勝つから任せろと言ってくれました。
延長の末、勝利を勝ち取り最終予選に進む事が出来ました。
その後怪我も治り、僕は当たり前のようにまた試合に出ていました。
クラスメイトの想いなど僕は気にもかけていなかった。
父に言われてその時の自分を振り返る事が出来ました。
自分なりには大学までに悔しい思いもしてきました。しかし、僕はその壁が他の人より少なく低かったんだと思います。
努力したからこそ勝ち取ったものもありますが、どこかに甘えや、甘やかされていた環境があったのだと。
それは僕は全て自分に責任があると思っています。
成功以上の喜びはありませんが、辛い思いの中に生まれる思いやりや、人を想う事がサッカーをしてきた僕には足りなかったんだと思います。
だからこそ、同じような想いは自分が少しでも関わる選手にはして欲しくないと思っています。
指導者という立場になって、全力でチャレンジをした中に成功と挫折をし、苦しさからも得ることが大きくある事を僕は伝えていきたいと。
成功の為の努力は時に無駄になってしまうかもしれません。
しかし、努力をすれば必ず成長します。
僕は自分が出来なかったこと、して後悔した事を踏まえ選手達に何か自分が伝えられたという思いでいます。
父と話してから一週間ほど考え、3年なる事もありもっとチームのために力になれるよう取り組んでいこうと考えました。
そして、チームの目的でもある上のリーグに上がる為に頑張っていこうと決めました。
新チームのキャプテンはマーちゃん。
責任感が強く、なんでも言えるキャプテンでした。下の学年の選手が適当な事をしていれば、今では想像できませんが、殴り合いを良くしていました。
この年も神奈川で優勝をすることが出来ましたが、関東2部には上がることができませんでした。
この頃には僕はサッカーは大学で辞めようと決心がついていました。
だから後悔なくサッカーに関わろうと。
ついに選手としての最後の年を迎えました。
その時出会ったのが、うちのチームにトレーナーのアシスタントとしてきた鬼木くんです。
(鬼木祐輔・現長友佑都専属トレーナー)
いつも僕らが適当にトレーニングをやっていないか見張っていました。そして選手以上に気合をいれてトレーニングを一緒にやっていました。
4年の僕にはもうそこまでの筋トレや走りのトレーニングを全力でやるパワーは残っていませんでした!笑
今でも鬼木くんと会うと、一輝が指導者になるなんて思ってもみなかった。と。
最後の一年はとにかくできる精一杯の事をして、チームに貢献しようと思いました。
神奈川代表を決めるリーグ戦にも全試合出場し、神奈川を優勝し、関東2部に上がる2チームを決める関東大会にのぞみました。
初戦を3-1で勝ち、準決勝は東京朝鮮大学。
勝てば2位以内が決定し、来年からの関東2部昇格が決まります。
4年間目指してきた昇格という目標。
今までの先輩たちがなし得なかった関東2部昇格を手に取る為、本当に必死で80分間戦いました。
後半早々に取った1点を守り切り、フィジカルの強い朝鮮を相手にチーム一丸勝利を掴みました。
サッカー選手人生、最後の目的であった関東2部昇格。
今もその映像をたまに振り返ります。
やっと最後に自分自身、そして歴代の先輩達が立てた目的を果たすことができました。
人目をはばからず皆んなで泣きながら喜んだのを今でも覚えています。
多くの悔しい思いもあっても、チームを1つ上のステージに、可愛い後輩達にもっと高い場所でのサッカーを与えられた。桐蔭横浜大学の新たな一歩を僕たちが刻めた事は僕の中で大きな誇りです。
その後も後輩達が受け継ぎ、新たな文化を創り、桐蔭横浜大学は今関東1部。そして今年は初の2位となりインカレ出場も決めました。
後輩達は多くの舞台で活躍し、山根はベルマーレ、大崎はヴィッセル、そして勝又は今でも京都のチームをJFL
にあげる為必死にみんな頑張っています。
僕は選手という立場ではありませんが、僕自身も指導者として頑張っていこうと思います。
一度サッカーから離れ、改めて私がサッカーに指導者として関われたのは、以前にもお話しした昨年突然の病で亡くなられた岩下さんのお陰です。
こんな僕を自分の子供のように関わってくれて、思いっきり褒めて、怒ってくれた岩下さんに天国から怒られないように指導者として頑張っています。
お前みたいな人のことを深くみて指導できる指導者はいない。思い切ってやれ。
と言ってくれた言葉は僕の中にいつもあります。
女子チームのボランティアから始まり、
町田ゼルビアではスクールの指導者として受け入れていただき、暖かく迎え入れてくれたクラブ。
ここでも指導に必要な心を指導者がオープンにするということを、酒井良という方から学びました。
その後、中学の時にお世話になったベルマーレに声をかけていただき働かせていただきました。
多くの選手と関わらせてもらい、本当に幸せな3年間を過ごさせてもらいました。
今でも湘南のサッカーが大好きですし、僕は曺さんが大好きです。
指導者としていつも僕の事を気にかけてくれて、指導者の僕を評価してジュニアユースのコーチにさせてくれたのも曺さんです。
色々な見方がありますが、僕は愛のある指導であり、選手の為に夜遅くまで悩んだり、選手がクラブを離れる時も泣きながら送り出したのを知ってます。
今僕は、選手として関わらせてもらった風間さん。
指導者とにて関わらせてもらった曺さんが僕の目指すお手本であり、憧れの2人です。
この人たちに追いつくには何十年も必要かもしれませんし、追いつくことは無理かもしれませんが、
選手一人一人の事を考えられる指導者を目指します。
そして現在。
多くの方に支えられてアネッロはあります。
選手達の成長が僕の自信になります。
選手の変化、成長が見れた時、自分も頑張ってこれたなと感じらます。
もちろん指導者がいなくては選手は上手くならないかもしれません。
逆に選手がいなけれな僕は成長も出来ません。
僕には指導者を始めてから決めていることがあります。
それはトレーニングが終わった時、必ず自分から「ありがとうございました。」という事です。
いろんな挨拶の仕方がありますが、僕は選手だけがありがとうございました。ということに違和感があるので、それは今まで変えていません。
立場はありますが、選手、指導者、保護者は僕は同じ立場でありたいと思います。
お互いがお互いをリスペクトして選手、指導者が共に成長する中に保護者の方が幸せになってほしいと思います。
最後になりますが、アネッロには2人の支えがいます。
タケルコーチ。
僕のことを誰よりもわかってる一番のパートナーです。
共にベルマーレで頑張ったあと、アネッロをやろうと決めれたのはタケルの一言があったからです。
「かずき君や指導者やった方がいいよ。俺も手伝うから。」
「かずきくんの指導をみて、自分はこの人みたいになれないから辞めようと思ったんだから、かずきくんはやったほうがいいよ。」と。
タケルはいつも僕の思いをくみとって選手に伝えてくれます。
彼がいるから、安心して全力でトレーニングができます。
杉山社長。
彼に会って僕ははじめて自分の弱さをさらけ出しました。
選手に対する愛は本当に凄いと思います。
いつも2人で話すと選手達の話ばかりです。
杉山社長と出会い、真っ直ぐに人と向き合うことの大切さを教わりました。
同い年ですが、ここまで信じた事を全力で応援してくれる人はいません。
自分をオープンにして、その人の良さを見つけ出す才能があります。
社長はいつも選手たちの成功や成長を喜んでいます。
僕が全力でサッカーをできるのは杉山社長のお陰です。
アネッロを通して多くの方々が幸せになってほしいと思っています。
一回一回のスクールやクリニックに観ている保護者の方も参加している選手も、指導している僕たちも、楽しくて幸せな時間だと思えるものをこれからももっともっと求めて自分なりに歩んで行きたいと思います。
そして最後に。
仙台大学のセレクションで出会ったルームメイトのヨシ。
彼は仙台大学での4年間を僕と同じく必死でサッカーと向き合い、卒業後営業職につきました。
当時、mixiというSNSでお互い繋がっていました。
2日しか共にしなかった仲ですが、僕にとっては大切に親友です。
そんなヨシは、お互い就職してから神奈川に会いに来てくれました。
東京出張があり、一緒に横浜で飲みました。
そしてヨシは2011年に起きました東日本大震災で亡くなりました。
営業途中に気仙沼で津波に巻き込まれました。
僕は、震災から2ヶ月後ヨシのSNSにご両親があげた投稿で知りました。
僕は、ヨシの分までサッカーに関わろうと思います。
現場になるべく立って、一番近くで選手の成長を見ていきたいです。
いつかお墓参りで、自分が頑張っている報告ができるよう。
懸命にサッカーに関わっていこうと思います。
ヨシ、頑張るよ。
サッカーは人をつなげてくれます。
サッカーって素晴らしい。